毒親に育てられた娘

精神を病んでから考えたこと。家族。やまい。いきること。

妹。

私の妹は親に殴られたことがありません。

欠点をあげつらわれたり罵られたことも無いです。

 

なぜなら。それは全て私の役割だったからです。

 

にぶい。せこい。みっともない。ださい。

そういった言葉は日常会話でよく言われました。私だけに。

 

たとえば、人ごみの中を歩くとき母は妹と手を繋ぎました。私は繋いでもらえなかったのではぐれないように必死で小走りをします。妹とすごく歳が離れているなら理解できるかもしれませんがたったの2歳差です。私だって十分幼かった。 でも“おねえちゃんなんだから”の一言でなんでも我慢しなくてはなりませんでした。 いつものように母は妹と手を繋いで歩きます。大人の歩みは子供にとっては速いです。置いて行かれないように必死についていきます。 あるとき、繁華街で沢山の大人が歩いている中私の靴が脱げてしまいました。母は気づかずに妹の手を引いてどんどん遠くへいってしまいます。私は迷子になるのがとても恐ろしかったので片方の靴を道に置いたまま母を追いかけました。優しいおばさんが私の靴の片割れを持って慌てて駆け寄って母に声を掛けました。母はお礼を言って私に靴を履かせました。

でも、私の手を取ることはなかったのです。

 

父も妹だけが可愛かった。

私が小学生の頃、父が新車を買ったと自慢しました。赤いぴかぴかの車が家に来ました。シートはビニールが掛かったままです。私は車のシートのビニールを外した方がいいというようなことを言いました。子供にそんなことを言われて腹が立ったのでしょう。父は物凄い剣幕で『お前なんて乗せてやらねぇ!!』と怒鳴りつけて妹だけを新車に乗せてドライブに出かけました。

父がお菓子を買ってきたとき、当然ふたつ同じものがあるのですが、わたしが嬉しくて必要以上にはしゃいだりすると『うるさい!お前には食わせねぇ!』と妹だけに与え、そして多分私の分であったであろうお菓子は父が食べるのです。

 

母は見ていても何も言いませんでした。妹も自分が特別扱いされるのが当然といった風情でした。

 

それでも子供の頃は妹なりに私を慕ったり頼ったりしていました。私も妹が羨ましいとか憎たらしいとかいう感情はありませんでした。物心ついた時からの差別なので当然そういうものだと思っていました。

 

高校にあがった頃、妹が私に対して優越感を抱くようになりました。妹に彼氏ができたからです。

 

高校にあがってから私はバイトを始めました。でも父が毎月万単位で借金の申し込みをするので手元には残りませんでした。それに返してくれることも決して無かったのです。

対して妹のバイト代には手をつけないのです。

 

妹はちゃっかりしたところがあり、プライドも人一倍強い性格でした。普通に友人を作り、彼氏も作りました。

私は不器用でばか正直なところがあるのでいつも人間関係で苦労していました。常に自信が無く、憂鬱で、思春期特有の鬱屈もあり素直に人と関われなかったのです。

 

妹はすぐに彼に夢中になりました。歌手のSに似ている。バンドをやってる。頭もいい。 その彼氏という人は妹と同い年でしたが、その時付き合っていた彼女とうまくいっていないときに妹と出会い、妹を選びました。妹の舞い上がりようは相当でした。

私はその頃、派手なタイプの彼氏がいましたが数ヶ月であっけなく捨てられていました。失恋の傷は癒えませんでした。

19歳のときに家を出て一人暮らしをしました。もちろんかつかつです。それでも家を出たのは父の暴力と毎日出て行け出て行け言われるのにうんざりしていたからです。

一人暮らしは孤独でした。訪ねてくる友人も彼氏も居なければ家族すら気遣ってくれないのですから当然です。

 

妹は高校を卒業しました。その彼とは続いていました。 彼は大学入試に失敗し浪人生になりました。妹はバイト生活です。 彼は東京でバンドをやりたい。という田舎の高校生らしい夢を持っていました。だから東京の大学に行く必要があるというのです。

妹の彼氏はどんな人か実はあまり知りません。その後ふたりは結婚しましたが、彼の家族に会ったこともないし当の彼にも数回しか会ったことがないからです。

彼は1年浪人しFラン大学にやっと合格し上京しました。そのあいだ妹はバイト代をせっせと貯金していました。 私は彼のことをあまり知らない上に数回あったときの印象は良くありませんでした。

妹の伝聞ですが、太ったら別れる。好きな人ができたら浮気じゃなくて本気。というようなことを言っていたようです。それにまだ高校生で妹に彼を紹介されたとき、彼はバンドの練習だとかで友人と一緒で、妹にあっさりと千円貸して。と言ったのです。

つきあってるといっても日が浅いのにお金が絡んでいたことになんだかいやな予感がしました。

妹は彼を追いかけようとしました。でも断られたと悩んでいました。それでも妹は彼を諦めませんでした。

半年後妹は追いかけるように上京しました。

そしていやな予感は的中しました。 彼は上京するにあたって親御さんから10万円の仕送りを受けていました。でも妹と同棲することが決まったときに家賃10万円の部屋に引っ越したのです。都心のほうがバンド活動をしやすいとかなんとかです。彼もバイトをしていましたが、東京でも彼と同棲するためにいる妹のほうが働いてる時間もお金も多いはずです。必然的に妹が働く前提で生活が成り立っていくわけです。

同棲するのはお互いの両親も知っていました。

でも挨拶もなにもされませんでした。そんな経済状況と知って尚です。妹が彼と結婚しても両家の顔合わせすらありませんでした。

彼の両親は裕福で地位のある職業の人たちでした。でも非常識な印象は拭えませんでした。

 

最初の一年で妹はげっそり痩せました。理由はわかりません。

両親は心配だから様子を見に行くように私に言いました。仙台に居た私は妹の家に一泊しました。もちろん交通費は自腹です。。。

 

彼はちょっとした言葉を交わすとひとりでゲームに興じ夜中までギターを弾いていました。

礼儀なんてなっちゃいません。都心に引っ越すまえの部屋だったので1kロフトつきの狭い部屋でした。

寝るときどうするのかな。と思ったら、妹は私にロフトを使うように言い、妹は彼とベッドで寝ました。

性行為があるわけではないですが、私の前で彼と当然のように同じベッドで寝る神経が理解できませんでした。

 

その後私は神奈川県に引っ越しました。一人暮らしをしていました。相変わらず孤独でした。年賀状が届いたのですが、前の住人のものだけでした。それをポストに戻しに行く。そんなお正月をすごしたりしていました。

 

妹が突然うちに泊まりたいと言い出しました。そんなことはじめてだったのですが、たまには会いたいのかな。と思って了承しました。妹は夜になったら化粧をはじめました。出かける予定などありませんでした。『なんで化粧してるの?』ときくとちょっと友達のところに行く。とだけ言うのです。

私のうちに泊まるのは言い訳で、最初から気になっている男のところに泊まりに行くつもりだったようです。

その前にバイト先に気になる人がいる。とは聞いていました。結婚願望が強い人だから気が合うとかなんとか。。。私は彼氏にばれないように二股をする算段に使われただけでした。

頭に来たので母に電話しました。妹が男の家に泊まりに行った。おかしい。と。母は言いました。

『あの子はそんな不潔なことしない。身体を許すようなことはしていない。』 母の信頼は絶大だったようです。

 

私が同棲すればだらしない。妹が同棲しているのは献身的だ。

両親の評価は正反対のものでした。同じことをしていても。です。

 

妹だけがいれば両親は幸せだったのかもしれません。

同じ家庭の姉妹を平等に愛せない。 そういうものなのでしょうか?

せめて父か母のどちらかが私を受け入れてくれたら…

両親揃って妹だけを可愛がり精神的にも肉体的にも私を苦しめ痛めつけました。

 

姉妹格差。

 

くつしたの片一方だけが大事ということは有り得るのでしょうか? 私にはわかりません。

 

ただとても辛かった悲しかった。ずっとこころに蓋をし続けて生きてきた。

他人に受け入れられたり分かってもらえる人生じゃなかった。

 

 

今日は妹の誕生日です。

サザエさんみたいな母?

母に関する事を書こうと思うと気が重くなります。

父はもう客観的に見れるので何とも思わないのですが…

母親という幻想を手放したくないという強い思いがありました。

何度も何度も裏切られているにも関わらず、いつまでも母を信じていたかった。

 

“お母さん”は永遠で居て欲しかった。

 

ーーーーー

 

父は今でいうモラ夫でした。

母をブタと呼び罵り、生活費を制限する、子供の前で母親を貶めるような発言を繰り返し、やりたい放題でした。

私と妹は必死になって母を庇いました。私達がいかに良い母かを訴えれば父はそれを面白がりよけい盛んに母を悪く言う。そんな繰り返しでした。

 

母は近所付き合いが上手で明るく陽気で貧しいながらも子供たちに少しでも楽しい思いをさせたい。常々そう言っていましたし、そう振る舞って居ました。

 

でもそんなの表向きの顔で、内面は自己中心的な嘘吐きの単なる女だったのです。

母親が母性を投げ打って女になることほど子供にとって哀しいことは無いと思います。母親であることより“男性の恋人なり性の相手”となることを選ぶ。私の母はそういう人でした。

 

えみちゃんに会いに行くと言い残して毎晩化粧をして出かけていく。“えみちゃん”なんて女性の名前を出せば子供如き騙せると思っていたのでしょう。夜な夜な男に会うために家を空けていました。父は“仕事”でいません。

小学生低学年の子供が二人きりで一軒家で過ごす。。。 不安でないわけありません。私は常に孤独を抱えていました。

 

昼間に友達が遊びに来たとき洗濯物を指差して笑いました。物干し竿に赤いレースの真ん中に穴の開いているショーツがひらひら干してありました。 『ぱんつにあなあいてるー!!』子供の無邪気な視点です。無論わたしもその“穴”の意味など知る由もないです。ただひどく恥ずかしかったのを覚えています。ああ。普通は穴の開いたパンツなんて履かないんだ…という感覚でしたけれど。

 

夏休み、冬休み、春休みは強制的に祖母の家に行かされました。無論姉妹ふたりきりで。

長い休みの間母は顔すら見せませんでした。

祖母は孫が可愛いとか子供が好きとかそういうのとは無縁の人でした。超のつくほどヘビースモーカーでわかばを常にぷかぷか吸い、最低限の面倒しかみてくれなかった記憶があります。食事は家庭菜園でとれた葉物のお味噌汁とごはん。子供が好きなメニューなどでません。たまにマルシンハンバーグを買ってくるようにいわれてそれが楽しみでした。まわりはたんぼしかない。公園は寂れた遊具だし、なにより蛙や虫が怖いので外で遊べない。どこかに連れて行ってくれるわけでもない淡々とした毎日。

祖母は長屋に住んでいましたが、祖父とは死別していて、お向かいのおじいさんと同棲していました…(この祖母にして母ありってかんじですね…)

だから夜はおじいさんの家で布団を並べて寝ます。

私たちは本来の祖母の家で子供二人きりで眠るのです。またしても大人不在の夜を過ごすのです。

(ちなみにそのおじいさんは超無口ですが私たちのことをかわいがってくれました。)

 

中学2年になったころ祖母が他界しました。母のきょうだいたちやいとこが総出であつまり不謹慎ですが祖母のお葬式はとても楽しい思い出です。祖母の自宅で遺体が安置されていました。その横で親戚一同酒盛りをして盛り上がっていました。祖母の遺体は綺麗でしたがはじめてみる亡くなった祖母の顔を見て泣きたかった。でもまわりは酒を飲んで笑っている親戚だらけなので泣くことができなかった。

おじいさんはただひたすら無言で大好きな日本酒を飲んでいました。おじいさんがきっと一番悲しんでいたことと思います。

 

母が離婚の話を具体的にしたのはこの頃です。

はじめからお父さんとの結婚には反対だったから祖母の死をきっかけにして別れるというのです。

離婚離婚さわいでいるのは父もそうでしたが母も結婚生活が破綻していたのに体裁を保つために続けていたようなものなので調度良かったのでしょう。あんたたちのために離婚しないんだ。と常々言っていました。

 

私はああ母子家庭になるんだ。とぼんやり思っていました。

 

母は同時に再婚話を進めていました。きっちり半年後に籍を入れるというのです。

 

私たちはどうなっちゃうのかな。と思うことはありましたが、母の言葉に仰天しました。

『お母さんは働いてないから裁判やってもあんたたちを引き取れないから。』

親権なんていらなかったのでしょう。そりゃそうです。再婚相手がいるんですから、でも起こしてもいない裁判で負けるからって言いくるめるなんて…

 

更に言いました。 『あんたが転校したくないって言ったから』

 

… はぁ??? です。そんなこと言った覚えありません。

 

結局私たちは無理やり父子家庭になりました。母の再婚相手は初婚だそうで私たちの存在を隠しての再婚になるという話でした。

 

… 嘘吐いてまで再婚すんのかよ。

 

もうどうでもよかった。

 

滞りなく離婚し、半年後に再婚し母はまもなく妊娠しました。

どこまで計画的なんでしょう… 母の大きくなったおなかを見て近所の意地悪なおばあさんに『お母さんまた産むの?』と嫌味を言われました。

 

妹がまだ小学生だったこともあり母と私たち姉妹は行き来していました。

結局母は異父妹弟、ふたり産みました。

よく言っていました『あんたたちはもう大きいから』

生まれて間もない子供は可愛いでしょう。母の溺愛ぶりは相当でした。

 

父は育児放棄するために一人暮らしをしていた祖母を迎え入れました。 母は姑である祖母を忌み嫌っていてことあるごとに文句を言っていました。だから私には祖母は良い人間に思えなかったのです。でも今にして思うとあんな無責任な母よりもずっと全うな人でした。昔の人なので物を捨てられなかったり腐りかけの食べ物を食べようとしたりはありましたし、そういうところを嫌悪していましたが、祖母が他界した今申し訳ない気持ちでいっぱいです。決して懐かなかったので。

 

高校生の頃毎日父からひどい暴力を振るわれていました。その時すでに心が壊滅的でした。制服のまま夜の大きな森林公園まで地下鉄で向かってベンチに座り、終電で帰るようなこともしました。

ネットも無いような時代。学校と家庭がすべてでどこにも居場所が無かった。

 

あるとき、本当に父に殺される。。。。。。と思った私は簡易的に荷造りをして制服のまま公衆電話に向かいました。

母に電話を掛け、『お父さんに毎日殴られるから少しでいいから泊めてくれない?』と切り出しました。

 

母は迷いも無く言いました。

 

『パパ(再婚相手)に迷惑が掛かるから無理。』

 

 

私は捨て子でした。

むずかしい。。。

母に関する記事を書きかけて放って置いています。

書きたい。でも書けない。。。

 

毒親は父よりも母の方が度合いはひどいです。

 

つまり、“私は良い親”という概念を植えつけながら虐待に近いことをしていたのですから。。。

 

父は身体的な虐待。母は精神的な虐待。

 

数え上げればきりがないのです。母の場合。

もう少し落ち着いてから書けたら良いな。と思っています。

眠れない。

今日は旦那さんが会社後輩の結婚式に出席して、半日暇だった。

 

なんか都内の一等地の高級ホテルで豪勢な式でドレスと和装の新婦さんが、ただただ羨ましかった。

 

一方の私は結婚式は20万円もの大金をはたいてキャンセルしている。

病状の悪化と激太りとか情緒も不安定で、呼べるような友達も居ないし、家族も大して興味がないという態度で一貫していた。

 

誰も祝ってくれないんだ…という被害妄想もあり諦めた。

 

旦那さんはこんな欠陥品の私を選んで幸せなんだろうか…

不安が、波のように襲ってくる。

 

 

私に散々な暴力を振るった元彼は結婚した。

その嫁はラブラブっぷりをご丁寧にブログにアップしていた。

DVは治らないっていうの嘘だと思う。

兎に角DV男は嫁にベタ惚れで甲斐甲斐しく料理を作ったり、悩みを聴いてやったり、レンタカーで旅行に行ったりしていた。

自動車教習所を中退というトンデモDQN話を自慢気に語っていたアナーキー気取りの屑が免許取得するとは…

“結婚式は恥曝し”と嘯いていた屑は満面の笑みで披露宴に臨んでいた。 ドレープの長いウエディングドレスの新婦、チャペルでの誓い、祝福に満ちた余興、緑溢れる庭でのハート形のケーキカット。2人とも幸せの絶頂期にいる一場面を残したブログ。

 

その頃の私は腕を切りつけ大量服薬と飲酒と過食を繰り返し体重が倍になった。入退院を繰り返した。

常に悲しく、憂鬱で、いつこのクソみたいな人生を終わらせようかしか考えていなかった。

旦那さんにあなたはもっといい人と人生やり直して幸せに成るべきだと懇願した。

 

今でも申し訳ない気持ちでいっぱいだ。 結婚式も子供も諦めざるを得なかった。 別人のように太った。

迷惑しか掛けていないように思う。

それでもいい。 その言葉は有り難いけど心苦しい。

 

純白のドレスを着る権利は私には無いのかな…

宇多田ヒカルの発言の意味。

宇多田ヒカルさんが“人間活動中”で今後の予定は空白。とのニュースが報じられました。

宇多田さんはイタリア人の旦那様と結婚されて幸せに暮らしていると思われます。

ひとりの女性としてパートナーを得て穏やかな生活ができるということはとても喜ばしいことですし、それに茶々を入れる気は毛頭ありません。

しかも宇多田さんはお母様である藤圭子さんを自殺という悲しい形で永遠に失っています。

その悲しみや孤独、家族としての悔い… まだ若いのに大きな苦悩を背負ったことは容易に想像がつきます。

 

私はアーティストとしての宇多田ヒカルは好きです。素晴らしい歌手だと思います。

活動絶頂期だったころ、タメ口や目上の人に媚びない姿勢はプロモーションの一環としての演出かな…くらいに思っていました。

ある時、その当時のアメリカ大統領が来日し、英語の堪能な宇多田さんが日本の歌手として紹介されました。その時、ハーイ!位の単語と手を振るというジェスチャーしかしない態度に唖然としました。

 

相手は一国の首領です。きっと宇多田ヒカルという歌手など知らない偉い人にクラスメイトに接するような態度をして良い訳がないです。

アメリカ大統領に媚びろという訳ではなく、外交として日本にきた要人に、私は米国で学び日本で歌手をしています○○と申します。この度はお会いできて嬉しく思います。位言えないのか?と激しく疑問に思ったわけです。

それに対してお咎めがなにもなかったことも覚えています。

 

宇多田さんはお母様を亡くされて、失意の中twitterかなにかで 今後精神病を世間に広めるような活動をしたい。 というようなことを発表しました。

藤圭子さんが精神病を患っていた事を受けてです。

 

私は宇多田さんの活動に期待しました。影響力のある人が精神病の正しい情報を発信するのは今の日本では必要だと思えたからです。

 

でも、そんな活動は全く為されないまま宇多田さんの結婚と日本を離れるということでうやむやになりました。

きっと宇多田さんのそんな発言は忘れられている事でしょう。 何か外部や身内の反対にあって頓挫したのかもしれないですし。

 

宇多田ヒカルという歌手ではなくひとりの女性として幸せなら良いです。

でもあの発言が無かったこと、実現していればかなりの影響力があったであろうことを思うと残念です。

アメリカンスタイルとか…

ー 日本人は島国根性だから考えることが小せえんだ!

ー 外人さんていうのはあれだな!立派で堂々としてる。日本人はダメだ!マナーがなっちゃいない。日本人のオッサンなんてみっともないよ! … 

 

父の迷語録です。

 

そんな父、海外渡航歴もなければ英語、ほかの外国語も話せません。

テレビ放映の映画の吹き替えを示すbilingualのアイコンを見て、妹にビリンガルって言うんだ!ビリンガルの時代だ!と言っていたので、私はすかさずバイリンガルだよ。と訂正しましたが今にもぶん殴られそうな空気になったのを覚えています。

父の外国至上主義はいつから始まったのか?なぜそんな思想になったのか全くの謎です。

断片的なことしか言わないし、アメリカ人は物事を大きく考えるからすごい。フランス人は芸術的だからすごい。等々脱力しそうになるほどステレオタイプな日本人の考える外国人像を夢見がちに語るだけだからです。

父は至極真面目に真っ当な事を言っていると思っていたようですが、海外渡航歴もない外国語も堪能ではない父の、恐らく憧れだけでの発言は、残念ながら薄っぺらい思想に裏付けられていたようです。

 

両親は離婚しました。親権は父なので私、妹、父、父方の祖母という父子家庭4人での生活がはじまりました。

 

… 勿論すったもんだありましたし今でも納得できない母への思いもあるのでいまは取り敢えずその後のことだけを書きます。

 

※以下暴力描写があります。

 

 

両親と暮らしていたころ、父は妹と母には手をあげませんでした。標的は私だけ。

平手打ちとか、母が妹の髪しかセットしないので自分でやろうにもうまく行かず、やっと仕上がった不格好な髪型がイヤだとぐずった私の髪を両手で鷲掴みにしてぐちゃぐちゃに崩したり、天井の高さほどに持ち上げられて床に叩きつけたり…(文字にすると結構壮絶ですが…)廊下は一カ所しか扉がないのでそこに泣き叫んだまま閉じ込められたり。その程度でした。

父子家庭になってからは私が中学2年生の反抗期真っ盛りということもあり暴力は酷くなりました。

私は幼い頃から散々暴力を振るわれていたにも関わらず、父を避けたり会話を拒むことはありませんでした。

しかし私は頭の回らない子供だったので賢く立ち回ることが出来ず、しょっちゅう父の地雷を踏み、父を激昂させては暴力を振るわれていました。 暴力という言葉を使うのは、単純に殴られるだけではなかったからで、往復ビンタあたりまえ、髪の毛をひっつかんで家中引きずりながら水が貼ったままの冷たい浴槽に頭をつっこまれる。蹴られたかは覚えていないのですがまあ色んな暴力を受けました。レイプされなかったことだけが幸いです…

 

今思うに父は家庭が壊れたことに失望していました。自営していた小さな会社の経営も傾き始めていました。

父は外面がいいのでストレスは全て内側に貯めていたようです。酒もたばこもギャンブルもやらない人で、母は常々女癖が悪いと私に吹聴しましたが再婚することもなく今も独身です。

若けぇ彼女がいる。と自慢することはあっても再婚はしませんでした。

恐らく父は孤独で遣り場のない気持ちを暴力という形で私にぶつけていたのです。

私は無力なサンドバッグでした。 父は酒に酔うでもなくラリっているわけでもなく、私に暴力を振るうときは無言でした。

 

両親と暮らしていた頃も父子家庭に祖母が居ても、父の私に対する暴力を止める大人は誰ひとり存在しませんでした。妹もです。皆が見て見ぬ振り、無かったことにする態度だったのです。

 

高校に上がっても平手打ち、壁に向かって突き飛ばす、床に叩きつける等の暴力は日常茶飯事でした。

女子校に通っていた私は、父から暴力を受けていることを打ち明けられるような友達も出来ず、教師に相談するでもなく、人を信頼したり、友情だったり健全な人間関係形成の築き方も分からないまま、本を読むことで現実逃避をしていました。

当時住んでいたマンションの共同アンテナで写るBS放送もよく見ていました。

NHKBSだったので古いアニメーションや海外ドキュメンタリーやニュース、イランや中国、ノルウェーやらのマイナーな映画などです。

ネットも一般的ではない時代でしたし、お金のない私のささやかな楽しみでした。 ビートルズに熱狂し芥川龍之介をイケメンとして信仰し、内田百閒先生を勝手にマイおじいちゃんにするような高校生でした。

 

学校のクラスメイトは当時時代を席巻したTKという人の音楽を聴き、まだバブルの残りでブランドの洋服や小物を持ちきゃっきゃと屈託無い笑顔で毎日を謳歌していました。

貧乏なのに不幸なことに私立のお嬢様学校しか受からなかった残念な脳みそ(当時の仙台の高校は、公立>私立でした)の私は浮いていました。

お金がないのでおしゃれも出来ないしCDも買えなかったし、そもそもその当時のギャルブームの走りでチャラい感じの女子に憧れないし、当時の日本のポップカルチャーに興味を持てなかった。

 

お金は父が会社を初めてから常に無かったようです。

父子家庭になり私はバイトをはじめました。でも殆どが手元に残りませんでした。万単位で父が借金を頼みに来るからです。私は断りませんでした。

 

妹も高校生になるとバイトをはじめましたが父がたかることは無かったので妹は年相応に洒落込み友人を作り、彼氏ゲットのために奔走して女子高生らしく楽しんでいました。

貸した筈のお金は一円たりとも返ってきませんでした。

 

ある時、家で父と普段通り会話をしていて私が父の怒りに火をつけました。父は殴ろうとして立ち上がりました。暴力は慣れっこです。抵抗もしなければやり返すこともしたことが無かった私です。

 

でもその時何故かはっきりきっぱり通る声で言いました。

『殴るんでしょ?殴ればいいじゃない。殴って解決するなら殴れば?』

咄嗟に閃いた言葉ですし感情は1ミリもなく機械のように喋りました。

 

一瞬の沈黙のあと父は無表情ながらなんとも形容し難い顔をして、私を殴りませんでした。 そしてそれ以降、父が私に暴力を振るうことは一切無くなりました。

何故父が暴力を止めたのか。何故私がそんな事が言えたのかわかりません。

とにかく本ばかり読んでいたので知恵が付いたのかもしれません。

 

父はまるで暴力などしたことのないように振る舞いました。口汚く罵る事もほぼ無くなりました。

 

父は自らの口でのんに暴力を振るったことなど無いと言いました。

 

“無かったこと”になり父の中でも封印されたようです。その言い分を聞いたとき悲しみや怒りよりも茫然自失してしまったことを覚えています。

 

父の考えることはよくわかりませんでした。外国かぶれは欧米に留まらずアジアに広がりました。

 

ー 中国やフィリピンの女性は素晴らしい!とても謙虚で家事も得意なんだそうだ。

 

最初言われたとき、再婚の話だと思いました。外国の女性を家につれてくるのかな。と思ったくらいです。私はそれはいいなと思ったのです。家庭らしい暖かさも知らず父の横暴に堪え生きてきて、血はつながっていなくても母親が家に来たら嬉しいことです。 でも一向にそんな女性は現れないのです。

父の中国とフィリピン女性賛美は続きました。とにかく性格がよくて素晴らしい!と言います。

欧米だろうがアジアだろうがアフリカだろうが世界中どこに行ってもこの国の人はこう!なわけ無いです。

個人の生まれ、生き様、性格、環境でその人となりを形成するのだから当然っちゃあ当然です。

中国人だのフィリピン人だの言ってるけどそれは差別的な発言ではないかと苦言を呈したこともあります。

父はそんなこと意に介するどころか聞き流して、中国フィリピン言い続けました。

当時流行していたフィリピンパブの常連かとも思いましたがどうやら違うようなのです。

だから父の熱弁が益々訳がわかりませんでした。

中国フィリピン女性賛美vs差別発言の論争も直に終わりました。 多分父が飽きたんだと思います。

フィリピンパブに通ってくれたほうがよっぽどわかりやすい。父のトンデモグローバル論は聞き流すべきでした。

 

でもひとつだけ私がムカついた発言があります。

私が19歳のころ転居して1階が父の会社事務所、2階が住居という形の家に住んでいたときです。

1階の事務所に取引先のお客様が見えました。対応して父を呼びに行き私は下がりました。

 

お客様が帰ったあと父は上機嫌で私に顔を見せました。

 

ー 社長が娘さん美人だね~って言ったから俺言ったんだ!家はアメリカンスタイルで育ててますって。

 

???です。社交辞令を真に受けてる父も父ですが…アメリカンスタイルってなんだ!?

 

父は調子に乗ってペラペラ喋り続けました。

要約すると家の教育方針はアメリカンスタイルだから子供のやりたい事を自由にのびのびとさせるということでした。

それが米国の一般的な教育なのかは知りませんが、うちは父が嬉々として語るアメリカンスタイルとは程遠い家庭でした。

私が夢や希望を言おうものなら鼻で笑われお前には出来っこないと否定され、剣道部に入りたいと言えば金がないから道具が買えないから駄目。

高校の時成績が良かったので進学コースで精一杯勉強した。就職氷河期と言われ始めていたけれど大卒はまだ就職できた時代。勿論就職コースもあったけど進学したかった。

大学の受験申込票に署名を頼んだとき父が言った。金が無ぇ。そんなこと想定内だったから育英会奨学金の面接にも受かっていた。それを伝えると受験料が無い。その位私持ってるから。

入学金が無ぇ。頭が真っ白になりました。

バイト代は父に根こそぎ持って行かれていたので貯金なんて無い。

30万円程用意できるわけ無い。親戚づきあいも無い。アドバイスをくれるような大人も身近にいない。

大学の入学金のシステムはよくわかりませんが、父は大学に行かせる気など更々無かったのです。

進路相談をしたとき大学進学の意志ははっきり伝えたはずです。

 

大学進学をさせる気が無いと分かっていたなら嫌々でも就職コースに進んだはずです。

簿記試験の勉強や履歴書の書き方、面接のノウハウが学べるのですから。

私は受験勉強しかしていませんでした。

大学入学願書締め切り間近の進路変更です。やっつけの就職活動などうまく行くわけがないのです。

 

父は実の娘の前でまで見栄を張り大学進学の夢を知っていながらそれを金が無ぇ。の一言でぶち壊しました。

高卒で就職する必要があるならそう言えばいい。

然るべき方向に向かうだけだ。

 

父の無関心無責任ぶりにぶっ殺したいくらい殺意がわいた。

何がアメリカンスタイルだ。 ただの放置だ。

単に娘の人生に関心がなく親としての責任も任務も何もかも放棄しただけじゃない!

何がアメリカンスタイルなんだか…

冗談にしても全く笑えませんでした。

古いアルバムとえみちゃん

ファンデーションやフェイスパウダーをいれるコンパクトを閉める『カチッ』という音が嫌いです。

その『カチッ』を聞くと即座に眠れない真っ暗な夜と、ああ今夜もひとりで孤独と戦うのか…という気分に一瞬なります。

私は23歳まで仙台市で生まれ育ちました。 仙台市は今では分かりませんがテレビが0時ですべての局が放送を終えてしまうのです。私が子供の頃はそうでした。

 

離婚だ!離婚してやる!離婚したら出て行く!

父の常套句でした。

母を『ブタ』と呼んでいました。ブタは家計のやりくりもできない!だから10万しか渡さねえ!

そして両親はお互いに絶対に口を聞かないのです。

家族構成は父母私妹(2歳下)です。

父が母に用事がある時はブタに~言っとけ!と私か妹が伝言するシステムです。

 

今でいう立派なモラ夫ですね…

 

母が父にどんな感情を持っていたかよくわかりません。

ある時はいかに酷い夫であり人間であるかを訴え、ある時はお父さんは子供の頃から可愛がって貰えなくて親戚中たらい回しにされたかわいそうな人と言いました。

 

両親はお互いに東北出身で金の卵として上京し東京で出会い、仙台市で新婚生活をスタートしました。

時に東京での楽しかった思い出話をしたり新婚当時のラブラブな分厚いアルバムを大事にしまっていたりと、兎に角母の父親評は定まらなかったので私は混乱しました。

 

そして父母共にこっちの味方だろう?という暗黙の選択を態度で示すのです。 父か母かどっちか選べ。というのは今思えば子にとっては酷なことで家族として機能していないということです。

しかも父はことあるごとに離婚だ離婚だと喚きます。

当時は不安で仕方ありませんでした。

 

父親がこうなってしまったのは理由があるのを母親は知っていました。

父は姉と弟がいます。父方の祖父母である両親も離婚せずに通しました。こういう変な言い回しになるのは父の両親は憎み合っていたからです。祖父は鉱山技師として相当な財を築いたそうです。伝聞なのは祖父は希望してホームで生涯を終わらせたからです。殆ど会ったこともありません。

父の姉は大変なお嬢さんとして小中学校と運転手付きの自家用車で通学していたそうです。

父と父の弟が生まれた頃はとっくに落ちぶれていて祖父が騙されたり色々で経済的には余裕がなくなっていき、その頃から祖母が働いて、何故か長男である父が親戚中に預けられて、姉と弟つまり父方の叔母、叔父は祖母の手で育てられたのです。

父は親戚の家で肩身の狭い思いをしたと母が言っていました。

祖母は叔父が車を買うとなれば現金一括で購入してやり、叔母はのちにシングルマザーになりましたが祖母が死ぬまで毎月小遣いをせびっていました。

祖母は金に不自由になった途端祖父を憎むようになったと聞きました。

父は多分情に脆い人です。それ故うまく生きていけないような所がありました。

私が高校生の頃、押し掛けの勧誘に嘘かもしれないお涙話を聞かされたり…で3社くらいの新聞をとるようなこともありました。

 

叔母は相当意地悪な人だったそうです。

父がよく話してくれたことがあります。祖母は稼ぐために学生向けの下宿をしていました。そこに東北大学の方がいたそうです。その方は足が不自由で、叔母は見かける度にビッコ!ビッコ!(侮蔑用語すみません)と指差して笑っていたと。父は自分が言われているように悔しそうに優秀な良い人だったのに。と力無く語っていました。

 

それと、本当に私の人生を揺るがすくらい壮絶な残酷なものを見たことがあります。

それは父の生まれてから幼少期の白黒写真が収めてある古い古いアルバムでした。

なぜか母方の実家の納戸に隠してあるかのようにしまわれていて一度しか見ていません。

でも一生忘れないです。

父の写真のすべての目に針穴があるのです。

異様でした。叔母の仕業でした。

私は小学校低学年でしたが、ただの悪戯ではないことを察知しました。涙が出そうになるのを必死に堪えました。それは生まれてはじめて感じた狂気だったのでしょう。何も言ってはいけない雰囲気で苦しくてやるせない気持ちだったのを覚えています。

 

だから私はきっと父は悪い人じゃない。と思っていた節があります。でも残念ながら父は私を憎んでいました。暴力は時を経るごとに加速していきました。私の成長に合わせて手加減しなくなっていったのです。性的暴行が無かったことくらいしか良い面はありませんでした。

父は私が生意気な言動をするたび心底忌々しそうに『保子にソックリだ!』と吐き捨てるように言いました。

ヤスコとは叔母の名前です。

父はそんなこんなで訳ありとはいえやりたい放題でした。

元々会社員でしたが、私が小学校2年の時に独立し有限会社を興しました。

仕事が忙しかったのか、昼も夜も家にいない毎日でした。

母はどうせ女と不倫してるんでしょ!と子供相手に言う人です…

リコンだのフリンだの子供の私には到底わからない世界でしたが日常会話に頻繁に出てくる家でした。

 

父が家に不在がちになると殆ど同時位だったと思います。

毎日毎日、夕方になると母は着替えて化粧をはじめるのです。

コンパクトの『カチッ』は母が身支度を終えた合図のようなものでした。 そしていそいそと出かけていくのです。 行き先は言いませんでした。

私は鈍感な子供だったので、おかーさんどこいくの?と結構な頻度で質問していました。母はえみちゃんにあうの!といって家を出ます。(えみちゃんとは母の同郷の友人という人です)

 

その当時、こじんまりとはしていたものの建てた当初は立派であったであろう日本家屋に住んでいました。私達家族が住んでいた頃は廃屋のような様相でした。木造でどこも建て付けが悪く施錠できないくらいでした。

父、そして母までもが毎晩家を空けていました。鍵はあきっぱなしです。

私が小学校3年生、妹が1年生の時です。

家族4人で食卓を囲んだ記憶などあるのかないのか分からないくらいですが、母は家事全般苦手な人でした。 機嫌が良いときは掃除や洗濯をしていた気がしますが、家を空けるようになってからはそれは私たち姉妹の仕事になりました。 料理は元々出来ないらしく出汁無しのお味噌汁とか平気な母でした。

段々昼間も両親がいなくなっていったので小銭を渡されて子供の足で30分以上かかるお弁当屋さんに買いに行くように言われたり、大量に炊いて保温しっぱなしの黄色いご飯に納豆とか、レトルトのハンバーグとか、いつ作ったかわからないコバエの死骸が浮いたうどんとか食べていました。 立派なネグレクトです。

 

母は毎晩えみちゃんに会いに行くとでかけていきます。 テレビの子供向けアニメなんて7時には終わってしまう。それからは大人向けの番組をつけていた。妹は寝てしまう。

私はおそらく寂しさと不安から不眠症になっていた。

0時になるとテレビの放映まで終わってしまう。

居間の電気はつけていた。

私は廊下から外を見ていた。隣家との間に街灯があった。唯一それが世界との接点のような気がしていた。

母はえみちゃんに会いに通う前もしょっちゅう夜遊びをしていた。ディスコに行くのだと言っていた。

私は街灯を見ながらきっとディスコには人がいるんだろうなと空想した。

母が毎晩えみちゃんに会いに行く理由を考えた。さっぱり分からなかった。

 

眠れない夜をどうやってやり過ごしたのか覚えていない。

外が明るくなった頃やっと安心して眠れた。

小学校には通っていた。相変わらず両親のいない家で朝を迎え食パンに安いジャムをつけて食べ牛乳を飲んで学校へ行った。

学校での思い出も皆無だ。

その頃何が楽しくていたのか思い出せない。

 

学校から帰るとコーラを飲んだ。学校の掲示板に炭酸飲料を飲むとカルシウムの吸収が阻害されるという図解が掲示してあった。同級生は親に飲ませて貰えない。コーラ飲めていいなーと言われた。コーラを飲むと歯が溶けるとまことしやかに言われていた。それでもうちの冷蔵庫にはコーラが常備してあった。母の好物だから。コーラを飲む頃母は家に帰ってきていた。気だるそうに横になっているか寝ていた。

 

夕方になるとまた母は化粧をはじめコンパクトの『カチッ』と共に家を出る。 また私は眠れない夜を過ごす。

 

中学2年の時に両親は離婚した。妹は小学6年だった。

再婚するからと言われて知らない男の人を紹介された。 母が『△△さんは妹よりあんたがかわいいって言ってた。変わってるよね!』と言った。 妹<私 の図式はあり得ないらしい。

 

いつ頃か忘れたけど妹におかーさんはなんで毎日えみちゃんに会ってたのかね?と言った。 妹は男の人に決まってるじゃん。最初から知ってたよ!おねーちゃん信じてたの!?と言われた。 まったくわたしはあほだったよ。