毒親に育てられた娘

精神を病んでから考えたこと。家族。やまい。いきること。

こころを病んでいる自分を客観的にみるということ。

メンヘラはジコチューでかまってちゃんでウザイ。

 

というのが世の中の通説になっている。

地雷。とか、関わったら最後である。とか…

 

確かに、そういう人はいると思う。

私も過去にそうだったと思う。

 

客観的、俯瞰的に病んでいる自分を評価することは辛いことだ。

見たくもない現実に直面するから。

だからどうしたって主観的にしかものごとを考えられなくなる。

あたしがあたしが。デモデモダッテ等言われる所以。

 

特に幼少期に親に“まっとうに育ててもらえなかった”“愛情をかけてもらえなかった”人ほどかまってちゃん状態になるのは当然だと私は考える。

愛情の欠如、愛されることへの渇望。

もうどうしようも無いほどに乾ききったこころに入り込む“人のあたたかさ”。

それが例え体だけの関係でも、暴力を伴っていても、金銭が目的でも…

心を病んでいる人にはかけがえのないものだったりする。

 

人との関わりが無い場合、それは依存という別の病に形を変える。

摂食障害、アルコール、自傷、違法薬物、ギャンブル、窃盗…こういったことに夢中になることでこころを殺し無になることでずっと奥に潜む闇から目を逸らす。

 

世の中、見たくもない残酷なことが溢れ返っている。

大人ですら自分のことに精一杯。子供に愛情をかけることができない人が増えていても不思議ではない。

虐待とひとことに言っても形はいろいろ…

自分のこどもに無関心。というのも虐待のひとつ。

 

最近、私は人との関わりを極端に避けている。

精神科に通う前に知り合った人たちは携帯を変えることで全部切ってしまったし、案じてくれるような親しい間柄の親友なんて居なかった。

精神科で知り合った人たちは上記のような人たちなので、お互いの傷をなめあっている内は気が合うけれども自らの回復にとってはマイナスになる。

 

デイケアに通っていたことがある。入院施設のある病院だったので“常連さん”がいた。

言葉は悪いけど、生活保護の人たち。入院もデイケアもタダ。働かない、働けないので暇。

今考えると随分嫌がらせをされた。スタッフを巻き込んでいつの間にか私が悪者になっていた。スタッフも主治医も私に向かって、場の空気を乱すことはやめろ。と忠告した。

デイケアは長く続けることができなかった。息苦しい空間だった。

“常連さん”たちにとっては、生活に困っていないし元気(に振舞っていただけ)な私が気に食わなかったろうし、私にとっては国の金で生きている“常連”さんたちが嫌いになった。

勿論、そうではない生活保護の人だっているし、私が見たことのある生活保護の人だからごくごく一部の人たちではあるけれども。

 

今考えると、あの人たちは寂しくて、コンプレックスを抱えていたのかもしれない。と思う。

 

家族もいない、ひとりで生活している。仕事をしなくていいから職場などで顔を合わせる人もいない。生活保護で生きているという偏見の目。

でも、生活保護だからって穿った見方で世の中や人を見ていいという訳ではない。弱者だから犯罪を犯していいという理論が通用しないように。

 

生活保護の有無を問わず、精神の病をもっているなら努めて客観性を身につけることはかなり重要なのではないかと思う。

 

それが自分の評価を保つ為に重要ということに早いうちに気づかないといけない。

 

確かに辛い。現在も辛いし、過去も辛かった。

でもいつまでたっても悲劇の中にいたら治るものも治らないのだ。

 

『わたし』の気持ちを重要視するあまり他人を傷つけたり、不快にさせたり、いつのまにかひとりぼっちになっていたら本末転倒。

 

“過去を昇華”することで現在を生きる。何なら“過去を葬って”もいい。

 

とにかく『わたし』を守り、快適で安全な暮らしを手に入れたいならとっとと“病因となったできごと”とさよならして、蹴りをつけて、

 

未来に生きなくてはいけない。

 

強くならないといけない。

 

いつまでも過去を引きずって後ろばかり向いていても楽しくない。

 

藁をもすがる勢いがないと生きて行けない。

 

それが、ひいては自分の幸せに繋がっていくと思う。

だから自分を客観性を以って省みることが必要なことだ。

 

 

生活保護や精神を病んでいることへの批判ではありません。生活が経済的に困窮していたら受ける権利のあるのが生活保護だし、精神を病んでしまったら適切な治療を受けるという考えの前提の元書いています。