サザエさんみたいな母?
母に関する事を書こうと思うと気が重くなります。
父はもう客観的に見れるので何とも思わないのですが…
母親という幻想を手放したくないという強い思いがありました。
何度も何度も裏切られているにも関わらず、いつまでも母を信じていたかった。
“お母さん”は永遠で居て欲しかった。
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父は今でいうモラ夫でした。
母をブタと呼び罵り、生活費を制限する、子供の前で母親を貶めるような発言を繰り返し、やりたい放題でした。
私と妹は必死になって母を庇いました。私達がいかに良い母かを訴えれば父はそれを面白がりよけい盛んに母を悪く言う。そんな繰り返しでした。
母は近所付き合いが上手で明るく陽気で貧しいながらも子供たちに少しでも楽しい思いをさせたい。常々そう言っていましたし、そう振る舞って居ました。
でもそんなの表向きの顔で、内面は自己中心的な嘘吐きの単なる女だったのです。
母親が母性を投げ打って女になることほど子供にとって哀しいことは無いと思います。母親であることより“男性の恋人なり性の相手”となることを選ぶ。私の母はそういう人でした。
えみちゃんに会いに行くと言い残して毎晩化粧をして出かけていく。“えみちゃん”なんて女性の名前を出せば子供如き騙せると思っていたのでしょう。夜な夜な男に会うために家を空けていました。父は“仕事”でいません。
小学生低学年の子供が二人きりで一軒家で過ごす。。。 不安でないわけありません。私は常に孤独を抱えていました。
昼間に友達が遊びに来たとき洗濯物を指差して笑いました。物干し竿に赤いレースの真ん中に穴の開いているショーツがひらひら干してありました。 『ぱんつにあなあいてるー!!』子供の無邪気な視点です。無論わたしもその“穴”の意味など知る由もないです。ただひどく恥ずかしかったのを覚えています。ああ。普通は穴の開いたパンツなんて履かないんだ…という感覚でしたけれど。
夏休み、冬休み、春休みは強制的に祖母の家に行かされました。無論姉妹ふたりきりで。
長い休みの間母は顔すら見せませんでした。
祖母は孫が可愛いとか子供が好きとかそういうのとは無縁の人でした。超のつくほどヘビースモーカーでわかばを常にぷかぷか吸い、最低限の面倒しかみてくれなかった記憶があります。食事は家庭菜園でとれた葉物のお味噌汁とごはん。子供が好きなメニューなどでません。たまにマルシンハンバーグを買ってくるようにいわれてそれが楽しみでした。まわりはたんぼしかない。公園は寂れた遊具だし、なにより蛙や虫が怖いので外で遊べない。どこかに連れて行ってくれるわけでもない淡々とした毎日。
祖母は長屋に住んでいましたが、祖父とは死別していて、お向かいのおじいさんと同棲していました…(この祖母にして母ありってかんじですね…)
だから夜はおじいさんの家で布団を並べて寝ます。
私たちは本来の祖母の家で子供二人きりで眠るのです。またしても大人不在の夜を過ごすのです。
(ちなみにそのおじいさんは超無口ですが私たちのことをかわいがってくれました。)
中学2年になったころ祖母が他界しました。母のきょうだいたちやいとこが総出であつまり不謹慎ですが祖母のお葬式はとても楽しい思い出です。祖母の自宅で遺体が安置されていました。その横で親戚一同酒盛りをして盛り上がっていました。祖母の遺体は綺麗でしたがはじめてみる亡くなった祖母の顔を見て泣きたかった。でもまわりは酒を飲んで笑っている親戚だらけなので泣くことができなかった。
おじいさんはただひたすら無言で大好きな日本酒を飲んでいました。おじいさんがきっと一番悲しんでいたことと思います。
母が離婚の話を具体的にしたのはこの頃です。
はじめからお父さんとの結婚には反対だったから祖母の死をきっかけにして別れるというのです。
離婚離婚さわいでいるのは父もそうでしたが母も結婚生活が破綻していたのに体裁を保つために続けていたようなものなので調度良かったのでしょう。あんたたちのために離婚しないんだ。と常々言っていました。
私はああ母子家庭になるんだ。とぼんやり思っていました。
母は同時に再婚話を進めていました。きっちり半年後に籍を入れるというのです。
私たちはどうなっちゃうのかな。と思うことはありましたが、母の言葉に仰天しました。
『お母さんは働いてないから裁判やってもあんたたちを引き取れないから。』
親権なんていらなかったのでしょう。そりゃそうです。再婚相手がいるんですから、でも起こしてもいない裁判で負けるからって言いくるめるなんて…
更に言いました。 『あんたが転校したくないって言ったから』
… はぁ??? です。そんなこと言った覚えありません。
結局私たちは無理やり父子家庭になりました。母の再婚相手は初婚だそうで私たちの存在を隠しての再婚になるという話でした。
… 嘘吐いてまで再婚すんのかよ。
もうどうでもよかった。
滞りなく離婚し、半年後に再婚し母はまもなく妊娠しました。
どこまで計画的なんでしょう… 母の大きくなったおなかを見て近所の意地悪なおばあさんに『お母さんまた産むの?』と嫌味を言われました。
妹がまだ小学生だったこともあり母と私たち姉妹は行き来していました。
結局母は異父妹弟、ふたり産みました。
よく言っていました『あんたたちはもう大きいから』
生まれて間もない子供は可愛いでしょう。母の溺愛ぶりは相当でした。
父は育児放棄するために一人暮らしをしていた祖母を迎え入れました。 母は姑である祖母を忌み嫌っていてことあるごとに文句を言っていました。だから私には祖母は良い人間に思えなかったのです。でも今にして思うとあんな無責任な母よりもずっと全うな人でした。昔の人なので物を捨てられなかったり腐りかけの食べ物を食べようとしたりはありましたし、そういうところを嫌悪していましたが、祖母が他界した今申し訳ない気持ちでいっぱいです。決して懐かなかったので。
高校生の頃毎日父からひどい暴力を振るわれていました。その時すでに心が壊滅的でした。制服のまま夜の大きな森林公園まで地下鉄で向かってベンチに座り、終電で帰るようなこともしました。
ネットも無いような時代。学校と家庭がすべてでどこにも居場所が無かった。
あるとき、本当に父に殺される。。。。。。と思った私は簡易的に荷造りをして制服のまま公衆電話に向かいました。
母に電話を掛け、『お父さんに毎日殴られるから少しでいいから泊めてくれない?』と切り出しました。
母は迷いも無く言いました。
『パパ(再婚相手)に迷惑が掛かるから無理。』
私は捨て子でした。