古いアルバムとえみちゃん
ファンデーションやフェイスパウダーをいれるコンパクトを閉める『カチッ』という音が嫌いです。
その『カチッ』を聞くと即座に眠れない真っ暗な夜と、ああ今夜もひとりで孤独と戦うのか…という気分に一瞬なります。
私は23歳まで仙台市で生まれ育ちました。 仙台市は今では分かりませんがテレビが0時ですべての局が放送を終えてしまうのです。私が子供の頃はそうでした。
離婚だ!離婚してやる!離婚したら出て行く!
父の常套句でした。
母を『ブタ』と呼んでいました。ブタは家計のやりくりもできない!だから10万しか渡さねえ!
そして両親はお互いに絶対に口を聞かないのです。
家族構成は父母私妹(2歳下)です。
父が母に用事がある時はブタに~言っとけ!と私か妹が伝言するシステムです。
今でいう立派なモラ夫ですね…
母が父にどんな感情を持っていたかよくわかりません。
ある時はいかに酷い夫であり人間であるかを訴え、ある時はお父さんは子供の頃から可愛がって貰えなくて親戚中たらい回しにされたかわいそうな人と言いました。
両親はお互いに東北出身で金の卵として上京し東京で出会い、仙台市で新婚生活をスタートしました。
時に東京での楽しかった思い出話をしたり新婚当時のラブラブな分厚いアルバムを大事にしまっていたりと、兎に角母の父親評は定まらなかったので私は混乱しました。
そして父母共にこっちの味方だろう?という暗黙の選択を態度で示すのです。 父か母かどっちか選べ。というのは今思えば子にとっては酷なことで家族として機能していないということです。
しかも父はことあるごとに離婚だ離婚だと喚きます。
当時は不安で仕方ありませんでした。
父親がこうなってしまったのは理由があるのを母親は知っていました。
父は姉と弟がいます。父方の祖父母である両親も離婚せずに通しました。こういう変な言い回しになるのは父の両親は憎み合っていたからです。祖父は鉱山技師として相当な財を築いたそうです。伝聞なのは祖父は希望してホームで生涯を終わらせたからです。殆ど会ったこともありません。
父の姉は大変なお嬢さんとして小中学校と運転手付きの自家用車で通学していたそうです。
父と父の弟が生まれた頃はとっくに落ちぶれていて祖父が騙されたり色々で経済的には余裕がなくなっていき、その頃から祖母が働いて、何故か長男である父が親戚中に預けられて、姉と弟つまり父方の叔母、叔父は祖母の手で育てられたのです。
父は親戚の家で肩身の狭い思いをしたと母が言っていました。
祖母は叔父が車を買うとなれば現金一括で購入してやり、叔母はのちにシングルマザーになりましたが祖母が死ぬまで毎月小遣いをせびっていました。
祖母は金に不自由になった途端祖父を憎むようになったと聞きました。
父は多分情に脆い人です。それ故うまく生きていけないような所がありました。
私が高校生の頃、押し掛けの勧誘に嘘かもしれないお涙話を聞かされたり…で3社くらいの新聞をとるようなこともありました。
叔母は相当意地悪な人だったそうです。
父がよく話してくれたことがあります。祖母は稼ぐために学生向けの下宿をしていました。そこに東北大学の方がいたそうです。その方は足が不自由で、叔母は見かける度にビッコ!ビッコ!(侮蔑用語すみません)と指差して笑っていたと。父は自分が言われているように悔しそうに優秀な良い人だったのに。と力無く語っていました。
それと、本当に私の人生を揺るがすくらい壮絶な残酷なものを見たことがあります。
それは父の生まれてから幼少期の白黒写真が収めてある古い古いアルバムでした。
なぜか母方の実家の納戸に隠してあるかのようにしまわれていて一度しか見ていません。
でも一生忘れないです。
父の写真のすべての目に針穴があるのです。
異様でした。叔母の仕業でした。
私は小学校低学年でしたが、ただの悪戯ではないことを察知しました。涙が出そうになるのを必死に堪えました。それは生まれてはじめて感じた狂気だったのでしょう。何も言ってはいけない雰囲気で苦しくてやるせない気持ちだったのを覚えています。
だから私はきっと父は悪い人じゃない。と思っていた節があります。でも残念ながら父は私を憎んでいました。暴力は時を経るごとに加速していきました。私の成長に合わせて手加減しなくなっていったのです。性的暴行が無かったことくらいしか良い面はありませんでした。
父は私が生意気な言動をするたび心底忌々しそうに『保子にソックリだ!』と吐き捨てるように言いました。
ヤスコとは叔母の名前です。
父はそんなこんなで訳ありとはいえやりたい放題でした。
元々会社員でしたが、私が小学校2年の時に独立し有限会社を興しました。
仕事が忙しかったのか、昼も夜も家にいない毎日でした。
母はどうせ女と不倫してるんでしょ!と子供相手に言う人です…
リコンだのフリンだの子供の私には到底わからない世界でしたが日常会話に頻繁に出てくる家でした。
父が家に不在がちになると殆ど同時位だったと思います。
毎日毎日、夕方になると母は着替えて化粧をはじめるのです。
コンパクトの『カチッ』は母が身支度を終えた合図のようなものでした。 そしていそいそと出かけていくのです。 行き先は言いませんでした。
私は鈍感な子供だったので、おかーさんどこいくの?と結構な頻度で質問していました。母はえみちゃんにあうの!といって家を出ます。(えみちゃんとは母の同郷の友人という人です)
その当時、こじんまりとはしていたものの建てた当初は立派であったであろう日本家屋に住んでいました。私達家族が住んでいた頃は廃屋のような様相でした。木造でどこも建て付けが悪く施錠できないくらいでした。
父、そして母までもが毎晩家を空けていました。鍵はあきっぱなしです。
私が小学校3年生、妹が1年生の時です。
家族4人で食卓を囲んだ記憶などあるのかないのか分からないくらいですが、母は家事全般苦手な人でした。 機嫌が良いときは掃除や洗濯をしていた気がしますが、家を空けるようになってからはそれは私たち姉妹の仕事になりました。 料理は元々出来ないらしく出汁無しのお味噌汁とか平気な母でした。
段々昼間も両親がいなくなっていったので小銭を渡されて子供の足で30分以上かかるお弁当屋さんに買いに行くように言われたり、大量に炊いて保温しっぱなしの黄色いご飯に納豆とか、レトルトのハンバーグとか、いつ作ったかわからないコバエの死骸が浮いたうどんとか食べていました。 立派なネグレクトです。
母は毎晩えみちゃんに会いに行くとでかけていきます。 テレビの子供向けアニメなんて7時には終わってしまう。それからは大人向けの番組をつけていた。妹は寝てしまう。
私はおそらく寂しさと不安から不眠症になっていた。
0時になるとテレビの放映まで終わってしまう。
居間の電気はつけていた。
私は廊下から外を見ていた。隣家との間に街灯があった。唯一それが世界との接点のような気がしていた。
母はえみちゃんに会いに通う前もしょっちゅう夜遊びをしていた。ディスコに行くのだと言っていた。
私は街灯を見ながらきっとディスコには人がいるんだろうなと空想した。
母が毎晩えみちゃんに会いに行く理由を考えた。さっぱり分からなかった。
眠れない夜をどうやってやり過ごしたのか覚えていない。
外が明るくなった頃やっと安心して眠れた。
小学校には通っていた。相変わらず両親のいない家で朝を迎え食パンに安いジャムをつけて食べ牛乳を飲んで学校へ行った。
学校での思い出も皆無だ。
その頃何が楽しくていたのか思い出せない。
学校から帰るとコーラを飲んだ。学校の掲示板に炭酸飲料を飲むとカルシウムの吸収が阻害されるという図解が掲示してあった。同級生は親に飲ませて貰えない。コーラ飲めていいなーと言われた。コーラを飲むと歯が溶けるとまことしやかに言われていた。それでもうちの冷蔵庫にはコーラが常備してあった。母の好物だから。コーラを飲む頃母は家に帰ってきていた。気だるそうに横になっているか寝ていた。
夕方になるとまた母は化粧をはじめコンパクトの『カチッ』と共に家を出る。 また私は眠れない夜を過ごす。
中学2年の時に両親は離婚した。妹は小学6年だった。
再婚するからと言われて知らない男の人を紹介された。 母が『△△さんは妹よりあんたがかわいいって言ってた。変わってるよね!』と言った。 妹<私 の図式はあり得ないらしい。
いつ頃か忘れたけど妹におかーさんはなんで毎日えみちゃんに会ってたのかね?と言った。 妹は男の人に決まってるじゃん。最初から知ってたよ!おねーちゃん信じてたの!?と言われた。 まったくわたしはあほだったよ。