アメリカンスタイルとか…
ー 日本人は島国根性だから考えることが小せえんだ!
ー 外人さんていうのはあれだな!立派で堂々としてる。日本人はダメだ!マナーがなっちゃいない。日本人のオッサンなんてみっともないよ! …
父の迷語録です。
そんな父、海外渡航歴もなければ英語、ほかの外国語も話せません。
テレビ放映の映画の吹き替えを示すbilingualのアイコンを見て、妹にビリンガルって言うんだ!ビリンガルの時代だ!と言っていたので、私はすかさずバイリンガルだよ。と訂正しましたが今にもぶん殴られそうな空気になったのを覚えています。
父の外国至上主義はいつから始まったのか?なぜそんな思想になったのか全くの謎です。
断片的なことしか言わないし、アメリカ人は物事を大きく考えるからすごい。フランス人は芸術的だからすごい。等々脱力しそうになるほどステレオタイプな日本人の考える外国人像を夢見がちに語るだけだからです。
父は至極真面目に真っ当な事を言っていると思っていたようですが、海外渡航歴もない外国語も堪能ではない父の、恐らく憧れだけでの発言は、残念ながら薄っぺらい思想に裏付けられていたようです。
両親は離婚しました。親権は父なので私、妹、父、父方の祖母という父子家庭4人での生活がはじまりました。
… 勿論すったもんだありましたし今でも納得できない母への思いもあるのでいまは取り敢えずその後のことだけを書きます。
※以下暴力描写があります。
両親と暮らしていたころ、父は妹と母には手をあげませんでした。標的は私だけ。
平手打ちとか、母が妹の髪しかセットしないので自分でやろうにもうまく行かず、やっと仕上がった不格好な髪型がイヤだとぐずった私の髪を両手で鷲掴みにしてぐちゃぐちゃに崩したり、天井の高さほどに持ち上げられて床に叩きつけたり…(文字にすると結構壮絶ですが…)廊下は一カ所しか扉がないのでそこに泣き叫んだまま閉じ込められたり。その程度でした。
父子家庭になってからは私が中学2年生の反抗期真っ盛りということもあり暴力は酷くなりました。
私は幼い頃から散々暴力を振るわれていたにも関わらず、父を避けたり会話を拒むことはありませんでした。
しかし私は頭の回らない子供だったので賢く立ち回ることが出来ず、しょっちゅう父の地雷を踏み、父を激昂させては暴力を振るわれていました。 暴力という言葉を使うのは、単純に殴られるだけではなかったからで、往復ビンタあたりまえ、髪の毛をひっつかんで家中引きずりながら水が貼ったままの冷たい浴槽に頭をつっこまれる。蹴られたかは覚えていないのですがまあ色んな暴力を受けました。レイプされなかったことだけが幸いです…
今思うに父は家庭が壊れたことに失望していました。自営していた小さな会社の経営も傾き始めていました。
父は外面がいいのでストレスは全て内側に貯めていたようです。酒もたばこもギャンブルもやらない人で、母は常々女癖が悪いと私に吹聴しましたが再婚することもなく今も独身です。
若けぇ彼女がいる。と自慢することはあっても再婚はしませんでした。
恐らく父は孤独で遣り場のない気持ちを暴力という形で私にぶつけていたのです。
私は無力なサンドバッグでした。 父は酒に酔うでもなくラリっているわけでもなく、私に暴力を振るうときは無言でした。
両親と暮らしていた頃も父子家庭に祖母が居ても、父の私に対する暴力を止める大人は誰ひとり存在しませんでした。妹もです。皆が見て見ぬ振り、無かったことにする態度だったのです。
高校に上がっても平手打ち、壁に向かって突き飛ばす、床に叩きつける等の暴力は日常茶飯事でした。
女子校に通っていた私は、父から暴力を受けていることを打ち明けられるような友達も出来ず、教師に相談するでもなく、人を信頼したり、友情だったり健全な人間関係形成の築き方も分からないまま、本を読むことで現実逃避をしていました。
当時住んでいたマンションの共同アンテナで写るBS放送もよく見ていました。
NHKBSだったので古いアニメーションや海外ドキュメンタリーやニュース、イランや中国、ノルウェーやらのマイナーな映画などです。
ネットも一般的ではない時代でしたし、お金のない私のささやかな楽しみでした。 ビートルズに熱狂し芥川龍之介をイケメンとして信仰し、内田百閒先生を勝手にマイおじいちゃんにするような高校生でした。
学校のクラスメイトは当時時代を席巻したTKという人の音楽を聴き、まだバブルの残りでブランドの洋服や小物を持ちきゃっきゃと屈託無い笑顔で毎日を謳歌していました。
貧乏なのに不幸なことに私立のお嬢様学校しか受からなかった残念な脳みそ(当時の仙台の高校は、公立>私立でした)の私は浮いていました。
お金がないのでおしゃれも出来ないしCDも買えなかったし、そもそもその当時のギャルブームの走りでチャラい感じの女子に憧れないし、当時の日本のポップカルチャーに興味を持てなかった。
お金は父が会社を初めてから常に無かったようです。
父子家庭になり私はバイトをはじめました。でも殆どが手元に残りませんでした。万単位で父が借金を頼みに来るからです。私は断りませんでした。
妹も高校生になるとバイトをはじめましたが父がたかることは無かったので妹は年相応に洒落込み友人を作り、彼氏ゲットのために奔走して女子高生らしく楽しんでいました。
貸した筈のお金は一円たりとも返ってきませんでした。
ある時、家で父と普段通り会話をしていて私が父の怒りに火をつけました。父は殴ろうとして立ち上がりました。暴力は慣れっこです。抵抗もしなければやり返すこともしたことが無かった私です。
でもその時何故かはっきりきっぱり通る声で言いました。
『殴るんでしょ?殴ればいいじゃない。殴って解決するなら殴れば?』
咄嗟に閃いた言葉ですし感情は1ミリもなく機械のように喋りました。
一瞬の沈黙のあと父は無表情ながらなんとも形容し難い顔をして、私を殴りませんでした。 そしてそれ以降、父が私に暴力を振るうことは一切無くなりました。
何故父が暴力を止めたのか。何故私がそんな事が言えたのかわかりません。
とにかく本ばかり読んでいたので知恵が付いたのかもしれません。
父はまるで暴力などしたことのないように振る舞いました。口汚く罵る事もほぼ無くなりました。
父は自らの口でのんに暴力を振るったことなど無いと言いました。
“無かったこと”になり父の中でも封印されたようです。その言い分を聞いたとき悲しみや怒りよりも茫然自失してしまったことを覚えています。
父の考えることはよくわかりませんでした。外国かぶれは欧米に留まらずアジアに広がりました。
ー 中国やフィリピンの女性は素晴らしい!とても謙虚で家事も得意なんだそうだ。
最初言われたとき、再婚の話だと思いました。外国の女性を家につれてくるのかな。と思ったくらいです。私はそれはいいなと思ったのです。家庭らしい暖かさも知らず父の横暴に堪え生きてきて、血はつながっていなくても母親が家に来たら嬉しいことです。 でも一向にそんな女性は現れないのです。
父の中国とフィリピン女性賛美は続きました。とにかく性格がよくて素晴らしい!と言います。
欧米だろうがアジアだろうがアフリカだろうが世界中どこに行ってもこの国の人はこう!なわけ無いです。
個人の生まれ、生き様、性格、環境でその人となりを形成するのだから当然っちゃあ当然です。
中国人だのフィリピン人だの言ってるけどそれは差別的な発言ではないかと苦言を呈したこともあります。
父はそんなこと意に介するどころか聞き流して、中国フィリピン言い続けました。
当時流行していたフィリピンパブの常連かとも思いましたがどうやら違うようなのです。
だから父の熱弁が益々訳がわかりませんでした。
中国フィリピン女性賛美vs差別発言の論争も直に終わりました。 多分父が飽きたんだと思います。
フィリピンパブに通ってくれたほうがよっぽどわかりやすい。父のトンデモグローバル論は聞き流すべきでした。
でもひとつだけ私がムカついた発言があります。
私が19歳のころ転居して1階が父の会社事務所、2階が住居という形の家に住んでいたときです。
1階の事務所に取引先のお客様が見えました。対応して父を呼びに行き私は下がりました。
お客様が帰ったあと父は上機嫌で私に顔を見せました。
ー 社長が娘さん美人だね~って言ったから俺言ったんだ!家はアメリカンスタイルで育ててますって。
???です。社交辞令を真に受けてる父も父ですが…アメリカンスタイルってなんだ!?
父は調子に乗ってペラペラ喋り続けました。
要約すると家の教育方針はアメリカンスタイルだから子供のやりたい事を自由にのびのびとさせるということでした。
それが米国の一般的な教育なのかは知りませんが、うちは父が嬉々として語るアメリカンスタイルとは程遠い家庭でした。
私が夢や希望を言おうものなら鼻で笑われお前には出来っこないと否定され、剣道部に入りたいと言えば金がないから道具が買えないから駄目。
高校の時成績が良かったので進学コースで精一杯勉強した。就職氷河期と言われ始めていたけれど大卒はまだ就職できた時代。勿論就職コースもあったけど進学したかった。
大学の受験申込票に署名を頼んだとき父が言った。金が無ぇ。そんなこと想定内だったから育英会の奨学金の面接にも受かっていた。それを伝えると受験料が無い。その位私持ってるから。
入学金が無ぇ。頭が真っ白になりました。
バイト代は父に根こそぎ持って行かれていたので貯金なんて無い。
30万円程用意できるわけ無い。親戚づきあいも無い。アドバイスをくれるような大人も身近にいない。
大学の入学金のシステムはよくわかりませんが、父は大学に行かせる気など更々無かったのです。
進路相談をしたとき大学進学の意志ははっきり伝えたはずです。
大学進学をさせる気が無いと分かっていたなら嫌々でも就職コースに進んだはずです。
簿記試験の勉強や履歴書の書き方、面接のノウハウが学べるのですから。
私は受験勉強しかしていませんでした。
大学入学願書締め切り間近の進路変更です。やっつけの就職活動などうまく行くわけがないのです。
父は実の娘の前でまで見栄を張り大学進学の夢を知っていながらそれを金が無ぇ。の一言でぶち壊しました。
高卒で就職する必要があるならそう言えばいい。
然るべき方向に向かうだけだ。
父の無関心無責任ぶりにぶっ殺したいくらい殺意がわいた。
何がアメリカンスタイルだ。 ただの放置だ。
単に娘の人生に関心がなく親としての責任も任務も何もかも放棄しただけじゃない!
何がアメリカンスタイルなんだか…
冗談にしても全く笑えませんでした。