毒親に育てられた娘

精神を病んでから考えたこと。家族。やまい。いきること。

生きたくても生きられない人がいる。

私が精神を病んだのは10年ほど前です。

 

※注意 DVについての記述があります。

 

 

付き合っていた人にひどい暴力をふるわれていました。付き合いは数ヶ月でした。でも私は彼のために引越しまでしました。そばにいたい。良い彼女で居たい。そんな一心で食事からなにからなにまで尽くしていました。蜜月は最初の1ヶ月ほどでした。

あるとき彼に平手打ちをされました。俺の親を侮辱した!と彼は激昂しているのです。意味がわかりませんでした。それは彼の家での出来事でした。それまで彼の両親となごやかに過ごしていたのに、ふたりきりになった途端です。

DVの心理というのは分かりません。でもとにかく気に食わないことがあればそれは相手のせい=暴力で解決=自分はちっとも悪くないという方式で成り立っているようでした。 度々殴られました。足で蹴り倒されて殴られたり、私が借りた部屋のふすまや扉をぼろぼろになるまで蹴り続けたり、灰皿をぶちまけられたり、そういう時必ず彼はこう言いました。

 

のんが悪い!のんが俺を怒らせるんだ!俺は今まで女なんか殴ったことない!

 

そのあとは必ずセックスを求めてきました。それに応じる私は当時何を思っていたのか…嫌われたくない一心でした。 それに今までの彼女は殴られていないのだから私は努力が足りないと本気で思っていました。DVのテンプレです。

彼はたくさんお酒を飲みました。私もお酒は好きだったのでふたりでも彼の仲間ともよく飲んでいました。飲まなければはじまらない、くらいの勢いです。 ある時、家でふたりで飲んでいて前後の記憶はすっぱぬけていますが…彼が私に何かを言いました。(覚えていないのですが…)絶望した私は死ぬしかないと思いました。発泡酒で喘息の薬を飲み込みました。ある限り。それこそ何十錠も。オーバードーズなんて言葉も方法も知らない頃です。彼は言いました。

 

そんなのただのパフォーマンスだ。

 

翌日彼は普段どおり仕事に出かけました。私は目を覚ましました。死んでいないことに絶望しました。止まらない体の震えと吐き気に自分で救急車を呼びました。到着した年配の救急隊員が何をしたのか聞きました。薬の大量摂取と知ると後ろの隊員にこう伝えました。

 

自殺だな。

 

近くの大きくて綺麗な病院に運ばれました。胃洗浄と数日の入院をしました。退院の日がクリスマスイブで小さなケーキが食事と一緒にでました。入院している間看護師さんも医師も親切でした。まじめで心優しそうな看護師さんが点滴を変えるとき、精神科の通院歴の有無を私に問いました。精神科なんていったことがない。と答えると彼女は言いました。

 

あなたには精神的なケアが必要だと思うの。

 

彼は私に散々暴力をふるい、私はおろか家族まで侮辱して、とうとう家をでてしまいました。私はDV男に捨てられたのです。心が空っぽでした。自殺未遂から半年経っていました。食べられない眠れない何も手につかない状態が続きました。派遣で事務をしていた会社もクビになりました。なんとか給付金で食いつないでいました。そんなときテレビでこんなコマーシャルが流れていました。

 

うつは心の風邪です。

 

私は精神科に通うことに決めました。小さなクリニックです。Pという抗鬱剤を出されました。でも一向に状況は変わりませんでした。ただ医者はどんどんPという薬を増やすだけです。その薬を飲むと目が冴えて脳が暴走したようになりました。それを訴えると安定剤が追加されました。

※本来抗鬱剤は私には必要ないものでした。うつでは無かったからです。ただうつと間違われる病気ではありました。

都内の入院施設のある大きな病院に転院しました。区役所に自分で電話をかけて探しました。クリニックの先生が入院を勧めてきたからです。区役所で対応してくれたのは女性でした。あなたは閉鎖病棟にはいる必要は無いと思う。と新しい病院を教えてくれたのでそこに通うことに決めました。

※そのときの女性の進言はとても大切なものでした。閉鎖病棟でひどい目にあったことがあるからです。

転院先ではPという薬は不要とのことでした。ただとてもたくさんの抗不安剤や安定剤、とても強い睡眠薬を処方されました。

私はその時すでに今の夫と出会っていました。私を支えてくれたのは唯一彼だけです。繰り返しの入院、自殺未遂、その度に心配して駆けつけてくれるのは夫だけでした。私と血のつながった家族は一度たりとも顔を見せることはおろか容態を気にするようなこともありませんでした。

 

死にたい 死にたい 死にたい 死にたい

死ななくてはいけないという思いだけで生きていました。ただどうしたって死のうとしても死ねないのです。自決することもできない。死ぬ勇気も無い。私は落胆していました。どうしてこんなに死にたいのに死ねないんだろう…私はなんて臆病者なんだろう…

 

同時にDV男が幸せに暮らしていることをその嫁のブログで知ってしまいました。未練、というよりは不幸を願っていました。それなのに加害者は幸せなのです。そのブログのコメントにひどいことを書き込みました。twitterにも書き込みました。嫁は私に向かって

 

粘着質のストーカー女

 

人には等しく時がながれるのに彼女は過去に生きている。自分の不幸を人のせいにするなんてまったくくだらんね。くだらんよ。

 

とコメントしました。

暴力を振るった彼からもメールを受け取りました。

 

警察に通報しました。可哀想だけど捕まって下さい。

 

あなたの人生は自分と出会う前から壊れていた。

 

でも私は警察の取調べすら受けませんでした。実際に近寄っていないからなのか、過去の暴力沙汰があきらかになったかは分かりません。

 

 

希死念慮がほとんどなくなったのは最近のことです。主治医が変わって、そして自分自身で暴力を振るった男のせいで病んだのではなく家族との関係で病んだのだ。と気づいたからです。

 

『おかあさん、わたししにたいの。どうしていいかわからない。』

 

泣きながらの訴えに母はこう言い放ちました。

 

もういい加減にして。私を解放して!

 

そして電話を切られました。

 

妹と父に『死にたい。死ななくてはいけない。でもどうしたらいいかわからない。』とメールしました。

 

父からの返信はありませんでした。

妹からはこんなメールが来ました。

 

生きたくても生きられない人がいるのにそんなこと言ってどうするの。

 

自殺志願者が、実行しなくとも一番言われたくないことばがこの言葉だそうです。

 

生きたくても生きられない人はいる。でも死にたくても死ねない人だっているんだ。そんな言葉をネットで目にしたことがあります。その言葉はとても身に染みて響きました。私もそんなひとりだったからです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※追記

現在のわたしはほとんど死にたいという気持ちがなくなっています。自死を推奨する文章ではないことをご理解ください。

これはわたしの過去のできごとです。